かつて私は「清貧」という概念が理解できなかった

かぶとたいぞうです。

かつて私は「清貧」という概念が理解できませんでした。

貧しいことが「清い」わけがないと思っていたのです。

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私の家は貧乏だったが清貧ではなかった

私が生まれた家は貧乏でした。しかし決して清いものではありませんでした。両親はいつも金のことで喧嘩し、金を得るために嘘をつき、ずるく立ち回り、小銭を得ては宝くじや競馬で一攫千金を夢見て、あぶく銭を掴んでは放蕩し、そして子供の学費も払えない家でした。

貧乏は悪であり病気だった

だから私にとって「貧乏」は悪であり病気でした。

映画やテレビドラマなどで「貧しくても清く生きる」などというテーマで描かれるものを見ると、子供心にも「偽善だ」「言い訳だ」「本当の貧乏が分かってない人の言うことだ」と思っていました。



私は貧乏から離れたかった

私は「貧乏」を遠ざけ、「貧乏」とは正反対の生活を求めました。

苦学して就職し、経営コンサルタントとして独立して昼夜働き、そして努力が実り、まぁまぁの生活を手に入れることができました。ススキノで散財することもおぼえました。

「清貧」を解く人を一刀両断

大人になってから出会ったある人に「清貧」について説かれたときも、「貧乏は病気だ、貧乏は伝染病と同じでうつる」と言って一刀両断しました。

私はそれほど貧乏を恐れ嫌っていたのです。貧乏を近づけたくなかったのです。

もう二度と金のない苦労、恐怖を味わいたくないと必死だったのです。



初めて知った「清貧」の考え方

私が「清貧」の意味を知ったのは年をとってからです。

私はいろいろな会社の役員や顧問などを務めていました。そしていろいろな会社から役員報酬や顧問料を得ていたのです。

世の中がどんどん変わり、私の仕事も厳しくなってきました。厳しいと言っても前向きな厳しさではないのです。嫌な厳しさなのです。

厳しい仕事、嫌な仕事が増えてきた

分かりやすく言えば、会社の存続のために社員を騙して実質的な給料を下げたり、待遇を改悪したり、退職金制度を廃止したり、抵抗する社員を切り捨てたりする仕事です。

会社を存続させるためといえば聞こえはいいですが、たいていはストレートに言うと、社長と社長の一族を守るためなのです。



景気のいい頃は前向きな仕事ばかりだった

むかし景気のいい頃は前向きな仕事ばかりでした。売上を伸ばす戦略を考えるのは楽しかったです。でも、10年ぐらい前からは後ろ向きな策略ばかりになってしまいました。それが私には厳しかったのです。つらかったのです。

社長に正しいことを進言したこともあります。諫言したこともあります。しかしその結果喜ばれたことは一度もありませんでした。煙たがられて退くことになるのです。しかも陰湿な方法で追い出されるのです。現実は小説や故事のようにはいきませんでした。

自説を曲げてでも報酬を得たかった

私にはお金が必要でした。子供の学費も家のローンもありました。だからいやいや社長側について社員をいじめるようなことを続けたのです。

「こんなことをするために経営コンサルタントになったわけではない」と思いながらも、私は自分の気持ちをごまかして仕事を続けました。つらかったです。



贅沢とポジションに執着して報酬をもらい続けた

そのうちに子供が大学を卒業し就職し、家のローンも終わりました。

それでも私は仕事を続けました。自分の立場やポジション、収入を失いたくなかったからです。

いい車に乗って、飲みに行けばたまに大盤振る舞いし、冠婚葬祭や人付き合いも派手にできるのは、私のポジションや収入があってこそです。私はそれを失いたくなかったのです。

執着との決別、清貧との出会い

でもある日、私が支援している会社の社長と、どうしても意見が合わなくて諫言してしまいました。クビ覚悟です。結果は見えていました。

その時私はこう思いました。

金やポジションに執着するから我慢しなければならない。車を処分して、ススキノには行かないようにして、質素に生きれば自分の考えを曲げずにすむ。自分を偽りながら贅沢をするより、節制しながら思い通りに生きるほうがいっそ清々しい。

「あ、清貧というのはこのことだったのか」

清貧の意味を知った瞬間でした。



清貧の本当の意味

「清貧」というのは単なる貧乏ではないのですね。貧乏人の言い訳でも、金持ちを悪く言う口実でもないのですね。負け犬の遠吠えでもないのですね。

自分の考えを曲げなくてもいいように人から頂く報酬を断り、そのために質素に生きることだったのです。正しく生きるためにお金や物、贅沢、見栄などへの執着を断ち切ることだったのです。

そんなことがようやく分かりました。

清貧が生まれる条件

世の中が正しく回っているときには前向きな仕事が多いので清貧は無用かもしれません。大いに仕事をし、豊かに生きながら思い通りのことができます。

しかし世の中が狂ってくると良心に反する仕事をしなければならなくなる場合が増えます。その時に禄を食む者は、良心を捨てるか贅沢を捨てるかの二社択一を迫られる時があるのです。

その時に贅沢を捨てるのが清貧です。



清貧が必要になる人

「禄を食む者」とは、組織または個人に仕えて報酬をもらう者という意味です。

だから自分の事業をやっていたり、今の私のように株式投資の配当で生きていれば完全に独立しているので諫言も不要だし清貧も不要です。

社長でも独立しているとは言えない場合がある

たとえ会社の社長でも、かつての私のように自社の製品を持たず、もっぱら受託仕事や請負仕事ばかりなら独立しているとは言えません。

私はいま本当の意味で独立していますが清貧を目指しています。株式の配当報酬が増えれば貧しくはなくなります。それでも清貧の考え方だけは守ろうと思っています。



単なる貧乏と清貧との見分けかた

ついでに単なる貧乏と清貧とを見分ける方法も分かりました。

お金がないのに宝くじを買ったりギャンブルをしている人は単なる貧乏です。お金への強い執着があるからそんなことをするのです。

貧乏に見えても宝くじを買ったりギャンブルを一切しない人は清貧かもしれません。

ごきげんよう。


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