かぶとたいぞうです。
我が家の仏壇に安置されているのは、パタヤビーチ近くのお土産屋で20バーツで買った、小さな仏像です。
大きさは5cmくらい。黒い木でできた、かわいい仏像です。
パタヤビーチ、ソイ13の土産屋
パタヤビーチ、ソイ13あたりのビーチロードから少し入ったところの屋台で売っていました。
カゴの中には、かわいいブッダ像がたくさん入っていました。何となく手にとって見ると、それぞれ微妙に顔の表情が違うのです。
その中で一番人相の良い仏像を見つけて、屋台のおばちゃんに値段を聞きました。
50バーツを20バーツに
彼女は最初50バーツと言いましたが、私が「高いなぁ」と言うと、3つで100バーツにすると言いました。
私は3つも買う必要がないので1つ20バーツにしてくれと頼みました。
20バーツは約70円です。私はそれほど貧乏していた訳ではありません。
コロナ禍のパタヤ、不安な日々
しかし当時は新型コロナの感染が拡大し、日本への帰国便が欠航したので帰国の目処が立たず不安な日々でした。タイに長くとどまることになるかもしれません。無駄金は一切使えませんでした。
お土産屋のおばちゃんは結局1つ20バーツにしてくれました。
コロナで観光客がめっきり減り、いくらでもいいから売りたかったのかもしれません。あるいは私が熱心に頼むから、かわいそうに思ったのかもしれません。
サウスパタヤのアパートに安置した小さな仏
私は当時住んでいたサウスパタヤのアパートの部屋にそのかわいいブッダを安置し、毎日手を合わせました。
手を合わせたと言っても何かを祈願したわけではありません。
お礼参りの考え方
かつて福岡の友達と太宰府のお寺をお参りしたとき、その友人が教えてくれました。
「神仏に手を合わせるときは、何かをお願いしたり祈るのではなく、感謝し、お礼を言うのだ」と。
彼は「お礼参り」という考え方を私に教えてくれたのです。
感謝しかしない
私はその考え方に深く感銘しました。以来、神や仏に何かをお願いしたり祈ることはせず、ただひたすらに感謝することにしたのです。
だから、サウスパタヤのアパートで朝目覚めたら、今日も目がさめたことに感謝し、夜寝る前には、今日も大過なく過ごせたことに感謝してかわいい仏に手を合わせました。
かわいい仏と一緒に無事帰国
昨年の7月。無事に帰国した際も、蒲田の隔離ホテルで毎日かわいいブッダに手を合わせ、札幌に戻ると仏壇の真ん中に安置して手を合わせました。
我が家にはもともと仏壇があったのですが、本尊はありませんでした。訳あってお寺に本尊をお返ししたのです。だから我が家の仏壇は空でした。
そこにパタヤビーチのお土産屋で買った20バーツの仏が入ったのです。
仏は単なる感謝の対象
私にとって仏とは単に手を合わせる対象です。
私はつくづく運がいいと思います。紆余曲折はあっても、結局は思ったとおりにいくことが多いのです。
もちろん自分自身の努力が実ってうまくゆくのだと思います。しかし、いくら本人が努力しても、実らないことも世の中にはあると思います。
だから私がうまく行っているのは私だけの力ではないと思うのです。
そう思うと感謝の気持ちが生まれますが、いったい誰に感謝したらいいのか、何に感謝したらいいのか分かりません。
誰に手を合わせていいか分からないから仏に手を合わせる
世の中に感謝すればいいのか、地球に感謝すればいいのか、自然に感謝すればいいのか。先祖に感謝すればいいのか、人類に感謝すればいいのか、自分に感謝すればいいのか。
誰に感謝していいのか分からないので、仏という対象を決めて手を合わせているだけです。
仏そのものには価値はないと思う
単なる対象ですから、仏そのものに価値があるとは思っていません。
20バーツ、約70円の仏なのですから。
ごきげんよう。
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著者かぶとたいぞう拝。
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