かぶとたいぞうです。
以前、友人から「お礼参り」について教えてもらったことがあります。神社・仏閣に行って神仏に何かを祈願するのではなく、お礼を言うために参るという考え方にとても新鮮な衝撃を受け、感動しました。
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神仏は祈ったり願ったりする対象ではない
以来、私は神社・仏閣ではもっぱら、日ごろ大過なく過ごせていることに感謝してお礼を言うだけです。何かを祈ったり、願ったりすることは決してありません。
パタヤビーチで買った、私のかわいい神仏
今年の1月、パタヤビーチのソイ13あたりのお土産屋で小さなブッダ像を見つけました。高さ4cmくらいの黒くてかわいいブッダ像です。
いい顔の表情だったので、30バーツ(約100円)で買いました。以来、その小さなブッダが私にとっての神仏です。
いつでもどこでも私はそのかわいい神仏に手を合わせる
パタヤのアパートでは、部屋の一番奥にある鏡台の上に安置し、日々感謝して手を合わせました。
今は札幌の自宅の仏壇のど真ん中に堂々と安置して、時々手を合わせています。
もちろん感謝のために手を合わせてお礼を言うのであり、何かを祈願することはありません。
お盆が近づいたので、かわいい神仏にお供えした
お盆が近づいてきたので、お水を取り替えて、おまんじゅうをお供えしました。ご利益は求めておりません。感謝のみです。
そもそも私の人生で神頼みが叶ったことなど一度もありありません。
私の人生で「神頼み」が叶ったことなど一度もない
受験も、就職も、資格試験も、すべて自分のたゆまぬ努力が報われた結果です。
商売も、健康も、出会いも、お金も、信用も、すべて日々の努力の積み重ねによって得たものです。祈ったり願ったりして手に入れたものなど、ただのひとつもありません。
ご利益(りやく)宗教には騙されない
だから、「祈れば手に入る」とか「入信すれば幸せになる」とか「信じればご利益がある」とかと言われたら、本能的に「怪しい」と思うのです。
努力をせずに幸せを手に入れようとする人がいます。宝くじが当たりますようにと神仏に手を合わせる人がいます。
そういう人は怪しい宗教に騙されます。
私は努力せずに幸せが手に入るはずがないと思っています。神仏を拝んでも宝くじが当たるわけがないと思っています。
だから騙されることはありません。ひたすら努力するだけです。
うまくいかない時は自分のせい、うまくいった時は神仏のおかげ
欲しいものは、ひたすら努力して手に入れます。手に入らない時は、自分の努力が足りないからだと自分を戒めます。反省します。
逆に手に入った時は、神仏に手を合わせて感謝します。努力しても報われないことがあるからです。努力が報われたのはありがたいことだからです。
うまくいかない時は運のせい、うまくいった時は自分の実力
まったく逆の考えの人もいます。つまり、うまくいかない時は運のせいにし、うまくいった時は自分の実力だと自惚れる人です。
そんな「はなもちならない人」は神仏も周りの人もうんざりします。呆れて見放すでしょう。それこそ運が逃げていきます。人は謙虚でなければなりません。
日々大過なく過ごしていることに感謝する
最近は欲しいものも無いので、日々大過なく過ごしていることに感謝しています。「大過なく過ごす」ということは実はありがたい事なのです。
人は大病を患ったり、大きなトラブルに巻き込まれて初めて「何事もなく過ごした日々」がいかに幸せだったのかを知ります。
私もだんだん歳をとって、悟りの境地に近づいてきたようです(嘘)。
ごきげんよう。
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著者かぶとたいぞう拝。
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